謙虚に生きるとは

おはようございます。行政書士の堂安です。

本日は謙虚とは、そしてなぜ謙虚に生きることが必要なのかについて、お話していきたいと思います。

私の昔からの座右の銘に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があります。

何故その言葉を強く思うようになったかのきっかけは、高校時代の担任の先生が強く影響しています。

先生はいつも堂々としていて、どんな生徒相手でも筋の通ったことを言って、その先生だけ特別ほとんどの生徒に好かれていたような、そんな気がします。

記憶では私はそんなに教師や先生などに懐くようなタイプではなかったですが、先生に言われたある言葉が強く、強く心に今でも残っています。

それは、「人の悪口を言うな」ということでした。

どんなきっかけでの言葉を聞いたのかも、どんな場面だったのかも正直あまり覚えていません。

しかし、「俺が生きてきた中でこれだけは言える。人の悪口は絶対に言っちゃいかん。」との話を聞いて、妙に納得したのは覚えています。

自分がされて嫌なこと、自分がしても嫌なこと、それががっちり心に刺さったかもしれません。
とにかく、私はそれからこれから人の悪口は絶対に言わない。考えもしないと誓ったのでした。

そんな心に強く残る、尊敬できる教師の言っていた座右の銘が「実るほど頭を垂れる稲穂かな」だったのです。

高校生の時からすでに、実はこの言葉を座右の銘にしていたのです。

ですが、これまで頭を垂れるように生きてきたのか、本当に謙虚だったのか、と問われるとそうではなかったのかもしれません。

それどころか、多くの人が目立つ派手な世界でも、何故控えめに過ごさなければならないのか、とさえ考えることもありました。

でも今は前よりも強く、言い切ることができます。謙虚に生きることは必要なことだと。

まず、謙虚という言葉は決して心まで控えめにいるということではないのです。

そして、自分に自信がないというのも全く違います。むしろちょうどいい自信のことを言うのかもしれません。

それに気づくのにも時間がかかりましたし、なによりなぜ謙虚に生きることが必要なのかについての答えも長らく出せなかったと思います。

その答えは、一言でいうと学びそして成長のためです。

ただの学びではなく、人は一人では生きていけず、支えられて生きているということ、そんな本質をこの学びは教えてくれます。

謙虚の反対は傲慢です。

そして、謙虚に生きるということは、そこに到達することではなく、「自分は傲慢ではないか」と問いながら、そこに近づこうとするその姿勢こそが、謙虚に生きるということなのかもしれません。